新しいコンピュータ文化の創造

ICOT・研究所長 / 渕 一博



コンピュータと文化のかかわり

淵でございます。元岡先生の特別講演に引き続きまして、基調講演というような役割を おおせつかっておりますが、技術的な話については、本日の午後、あるいは明日という ことで、後ほど詳しくご報告申しあげることになります。そういうことで、技術的なと ころを抜いて何か話すということになりますと、なかなか苦しいわけでして、ご挨拶が わりのお話しをちょっとさせていただきたいと思います。

題名は少し気取りまして、あそこに書いてありますようなこと(新しいコンピュータ文 化の創造)になっているわけですが、題名にふさわしいお話ができるかどうかは、試みて みないと分からないと思います。

昨年のこの会のときもに、基調講演ということでお話をしまして、そのときには、こ のプロジェクトの意義というようなことをお話しました。このプロジェクトの一番大き な意義というのは、コンピュータの歴史の中で第2の段階、新しい歴史的な段階を作る ことであろうというようなことを申しあげましたて、あと、パラダイム論を援用して、 現在のコンピュータの中心的な思想になっているチューニング・パラダイムからフレー ゲアン・パラダイムに移行するというようなことではないかというお話をしたわけです。 このことは、別の言葉でいえば、新しい文化を創造するための努力の一つが、このプロ ジェクトであると言ってもいいと思っています。文化という言葉もなかなか難しい言葉 であるのですが、私としては、単に言葉の飾りとしてよりは、もっと深い意味合いが あると思っているわけです。

そのうちの一つの視点は、コンピュータという技術、あるいはコンピュータと言う機械が、人間の歴史の中で果たしている、あるいは果たそうとしている役割というものと関係があると思っています。

よく、文化、文明ということを言うわけでして、英語ではどうか分からないのですが、日本語の場合には、文明は物質文明、文化のほうには精神文化というふうな対立したような、対峙させたような表現があるわけです。

コンピュータの出現の意義というのは、人間の文化という側面に関わってきているところにあるのではないかと思っています。従来の技術、機械技術、エネルギー技術等々というのは、この物質文明というところに関わっていて、まさにそれを支えてきたわけですが、コンピュータの出現は、そういうエネルギー、物質というところから、便元の精神という領域に関わってきているということが非常に大きいのだと思います。

本来ならば、このことは、歴史学者、あるいは社会学者等にお願いしなければいけないのですが、人間の歴史の中での情報の役割、情報歴史学とか、情報社会学というのが、もっともっと進展しなければいけないと思うのですが、コンピュータというのは、そういう関わりがあると思っています。

コンピュータは言葉を持ち言葉を扱う機械

これはどうかしてかということを考えてみると、われわれの文化を成り立たせ手いる非常に大きな要素というのは、言葉の存在、言語の存在であると思うわけです。

もちろん、この文化というものの中には、言葉だけでなくて、もっと広いものがあるわけで、たとえば食べ物、どういうものを食べるかとか、どういうふうに料理をするかといったことは、民族の文化の一部になっている。これは必ずしも言葉に支えらているわけではありませんが、しかし、人間の文化と言ったときに、言葉の果たす役割は非常に大きいものがあると思います。これに対する関心は、いつも歴史の中にあるわけで、最近でも記号論の流行というようなものは、言葉に対する関心、言葉と人間の関わりというものに対する関心の現れだといっていいわけです。

ところで、コンピュータはどいう機械かということを、皆さんに改めて言うこともないわけですが、私がそれを一言で言ってしまうと、コンピュータとは言葉を持った機械であり、言葉を扱う機械であるというところが、まさにコンピュータの本質ではないかと思うわけです。

ここでいうコンピュータの言葉とわれわれの言葉は、若干のくい違いがあるわけですが、言葉という意味では、実はこれは単なるアナロジーではなくて、やはり両方とも言葉なのです。

そういうことからしますと、言葉を持った機械は、一つの文化を持ちうると言っていいと思います。実際に言葉が存在するということによって、コンピュータの技術の中ではどういうことが起こっているかというと、その言葉の上で、いろいろな情報を表現して蓄積する。これがソフトウェアという形になって蓄積されていく。したがって、このソフトウェアが存在して果たす役割が大きいというのは、コンピュータが言葉の機械であるということと、まさに表裏一体なわけです。

このソフトウェアが存在するというのは、一つの小文化というか、小さな文化圏を作っているわけです。基本となる言葉を換えれば、その上に乗っているものを言い直さなければいけないというようなことがあるわけで、ソフトウェアは言葉にのっとった新しいタイプの文化であるということが一つあります。

ソフトウェア体系も一つの文化圏

文化は人間にとって非常に本質的な存在ではあるわけですが、ある意味で継続性があるか、保守性があるということは、人間の文化について言えるわけです。一つの国の文化が、全く別のものに変わるということは、歴史の中でも極めてまれなわけです。

 それを支える言語自身も、世界の中に統一的な言語があればいいよ言われながらも、決してそうならないわけで、日本人は日本語、英米人は英語というものから、きっと未来永劫に近いほど離れられない。そういうふうに非常に基本的であり、その上に構築されたものは、一つの体系を持ってなかなか変わらないということは、人間の文化の場合にも観察されるわけです。

 これと同じことは、コンピュータ文化にも言えるわけでして、現在のコンピュータの上に築かれたソフトウェア技術の体系とも言っていいと思いますが、これも一つの文化でありまして、簡単に右から左に変えられないということがあるかと思います。

 これは一つは、言葉を持った機会であり、その上にいろいろなものが構築されていく。その構築というのは、次々増えていくということに大きく関係していると思うわけです。

 2番目に、言葉を持っている機械であるということは、人間との関わりあいにおいても大きいわけです。コンピュータというマシンがあるわけですが、これのハードウェアの設計は、非常に閉じられた世界かもしれませんが、ソフトウェアまで含めたもので考えると、いわゆる設計者の広がりは非常に大きいわけです。

 ソフトウェアを作ったり、それに携わったりしている人が、自分をデザイナーだと思っているかどうかは知りませんけれども、やはり広い意味では、かなりエンドユーザに近いところでプログラムを作っている人も、やはり新しい機械の一部を設計している設計者であるわけです。

 これはほかの技術とは非常に違うわけで、たとえば自動車であれば自動車の設計者がいる。片方にユーザがいるわけですが、この境界は非常にはっきりしているわけです。かなりの人が運転できるわけですが、自分で機械の中に手を入れてやるというのは非常に少数のマニアでしかない。

 あるいはテレビでもそうなので、テレビのデザイナーがどこかにいて作ってくれているわけですが、普通のユーザーというのは、それをボタンを押して見るわけで、自分で作ろうという人は非常に少ない。そこの境界は非常にはっきりしています。

 新しい時代の予感がどこから生まれてくるかというのは、なかなか難しいわけで、非常に単純に、人生経験を豊富に積めば、新しい時代が予感できるかというと、どうもそうではないというのが、人間の歴史が教えるところです。

 経験を積めば積むほど、新しい時代が見えなくなって、頑固固 になるという傾向もある。そうでない、すごく立派な老人もいらっしゃるわけで、十把じとからげにはできませんが、傾向的に言うとそういうことがある。

 そういう人たちから比べると、勉強も大学でちょっとやったぐらいで経験も少ない、そういう若い人たちが、過去においてもやっぱり歴史を切り開いてきたわけですね。彼らが、新しい時代を切り開く判断をどこから得たかというのは、なかなか難しいわけです。証明された結果を採用するのならば、これは簡単ですが、そうではない。

 いろんな知識の豊富さ、経験の豊富さから導きだしたかというと逆なわけで、私はちょっと非科学的な考えを持って、人間というのは、ある時期になると、次の時代を何か予感する動物的な感覚を持っている。そういうものに基づいて、次々に歴史が発展してきたのだろうと思います。

 非常に大きくうまく変わるときは、そういう世代を中心にして、上の世代が、若い世代をうまく育てたというような形で、次の時代が開けるのではないかと思っています。そういう非常に乱暴な主観的な考えを交えて考えますと、現在、日本の中におけるいろんな研究の高まりというのは、単に第5世代がスタートしたからではなくて、それは新しい動きへの刺激だったと言ってもいいぐらいではないかと思うわけです。

 たとえば情報処理学会における発表テーマも、こちらのほうから見て、5世代に関連する思われるようなテーマが、3分の1近くあるのではないかということがありますが、この3分の1というのは、別にICOTの発表が3分の1を占めているわけではなくて、もっと広い活動の結果、そうなっている。その活動というのは、だれかに命令されてやっているわけではなくて、もっと自発的に起こっているというようなことがあります。

 これに類することは、世界中にあると思います。今年の秋に私どもが計画しているFGCS84、この4日間の計画のうち、前の2日は、この3年間の第5世代プロジェクトの成果報告ですが、後半2日間は、いわゆる学会の論文発表ディスカッションという形式にのっとった企画にしてあるわけです。

 そのために論文募集、コールフォーペーパーをしたわけですが、この論文応募というのも、当初の予想をはるかに上回って、200件以上の発表申し込みがあったわけです。ということで、プログラム委員長をお願いしている相礎先生は嬉しい悲鳴というか、非常にご苦労をしていただいているわけです。

 これも、世界中に新しい研究が活発になってきている。これはまさに世界的な動きであって、これまで外国のプロジェクトの紹介もありましたけれど、そのプロジェクトはまだスタートしようかしまいかという議論が行われているところで、その結果ではないわけです。

 むしろ、それに並行して、もちろんそれに刺激されてということはあると思いますが、世界的にいろんな研究者が、新しい方向を目指して研究を始めている。ところで、情報処理関連、あるいはコンピュータ関連の研究が再活性化されつつあるわけです。世界的にそういう傾向があります。

 このこと自体は、一つの新しい時代への予兆であろうと思うわけです。というわけで、この計画段階、あるいはそれを含めると数年がたっていますけれども、この数年を経過して感じることは、細部の点は別にしても、基本的な線においては、この数年でいろんなことが,われわれの想定した基本線を支える、支持するような方向にあるように思えるわけです。

 これは自慢して言っているわけではなくて、そういう方向に進まなければいけないということの確信を深めさせるものだと思っています。

世界中に5Gの環を広げよう

 このプロジェクト自身は、ナショナル・プロジェクトでして、日本の国内で言うと,かなり大柄なプロジェクトです。米国等に比べると、豆粒みたいなプロジェクトかもしれませんが、国内では非常にしっかりした予算的な援助も得ている大きなプロジェクトですから、それなりに大きな役割を果たさなければいけないと思っています。

 私自身もそういうふに思っていますが、それと同時に大事なことは、新しい時代というのは、世界の中の一部である日本の中の、また一つのプロジェクトだけで、新しい時代がくるかというと、そうではない。

 日本の中だけで言っても、これがプロジェクトという形になっていようがなっていまいが、もっと広い、いろんな研究活動とうまくつながっていって、それが総合される。これは世界的にもそうであると思うわけで、そういう世界中の研究努力というものが、一つの方向で進み出したときに、本当に新しい時代の到来が近づくと思います。

 なぜ、そういうふうに言うかということの裏には、やはりコンピュータが一つの文化だ、この技術というのはオープン・エンテッドなわけで、これは現在のものでもそうですが、次の時代の第5世代的なコンピュータ技術の体系もオープン・エンデッドであって、それに関わる人々が増えないと、新しい次の文化というのは根付かない。文化というものは、人々が支えるということからすると。、やはりそういうたくさんの人が必要です。

 よく漫画等に出てくる、どこかに隠れて大発明をして、それを売り出すと、たちまち売れて大企業になってというような意味での成功ストーリーというのは、ぼくはコンピュータの分野では想像しにくいと思います。どこかの天才が、地下室で新型の第5世代か第6世代かを発明してしまって、それで歴史が変わるということは、コンピュータの場合にはなかなかありえない。

 それはなぜかと言うと、別に天才的なものが不必要だということではないわけですが、技術がオープン・エンデッド、要するに広がりを持っている、常に成長していくような技術であるというところに、そう考える元があるわけです。

 もちろん、天才というのはたくさN出てきてくれたほうがいいわけで、日本の中でも、これからそういう人たちが出てくると思います。だれを天才と言うかというのは、結果を見てから言われることが多いわけで、歴史の中では、生きているいちにはだいたい認められなくて、バカだのチョンだのと言われた人が、後世は天才と言われているケースが結構多いわけです。

 コンピュータの分野でどうなるか知りませんが、いずれにしてもそういう才能、天才と呼ばれか呼ばないかは別としても、新しい技術を作るような才能というのは出てくると思います。

 そのへんは非常に私、予定調和的な発送を持っています。これまでそういう人がいなかったから、日本は新しい技術の創造に向かないじゃないか、独創性がないんじゃないかと言われたりしますが、これは今西先生の進化論的な表現を借用しますと、そういうものは出るときには出るんだ。出るべくして出てくるんだと思っています。

 現在の段階で、じゃそれが何年後であるか、だれがその人であるかというふうに名指しはできないわけですが、この10年間にはそういう人たちがたくさん出てくる。出るべくして出てくるんじゃないか。ただ出るべくしてということではなくて、出るような体制、環境設定、いろんな研究交流の場とか、そういう環境づくり等を前提にして、出るべくして出るだろうと、私は思っているわけです。

 これまで申し上げましたように、このプロジェクトというもの自身も、完結したプロジェクトではない。完結という意味は、閉じたプロジェクトではないと思っています。直接に関係する人も、これから増えてくると思うんですが、また間接的に関連する人も増えてくる。そういう全体の動きというものを、うまく育てていくという立場が必要だと思っています。

 その中でICOTが、一つの大事な役割を果たさなければいけないと思っていますが、そういうことを前提にした上で、また今後もさらに、いろんな人のご協力を得たいと思っています。  昨年にもまして一般論をやりました。なかなか慣れないことで、何を言っているのじゃ、全然つまらない話で時間をつぶされたとお思いになり方もいらっしゃるかもしれませんが、プロジェクトを進めているものの気持の一部でも汲んでいただければ幸いだと思います。

 細かいこと、具体的なことは午後、あるいは明日、じっくりお聞きいただきたいと思います。それでは、どうもありがとうございました。